顕然
「書いているときは無心でいらっしゃ
るのでしょうか?」という質問に、
九楊先生は「無心?無心とはなんだろう。
私はいたって有心ですよ」とお答えにな
った。「常に何かを考えている。ただその
考えはすでに過去であって、私たちに未来
はわからないから、その過去と未来のその
点のような一瞬を、あえていうなら無とい
うのかもしれない」と。そして、
「ときどき未来は顕然としている」とも。
「有心」
日ごろ口にしないし耳にすることも少ない
言葉に新鮮さを覚えたことを思いだす。
無に対し有。そうだなぁと。
書は無心になれるとか、無の境地で書く
などと言われることもあるけれど、正直
なところ、ああでもないこうだろうかと、
いつも何か考えを巡らせながら書いている。
九楊先生の言葉がストンと腑に落ちて、
なんだか目が覚めたようだった。
とはいっても、枕草子第35段
「とくいえ 有心すぎてしそこなふな」
にもあるように、すぎる のはいただけない。
それはいつもポジティブなものでありたい。
そうすれば大丈夫。
未来はきっと顕然とし光るものであるだろう。
そう思うお盆であります。